申し訳なさの裏側にあるもの

YONさんちからの帰りの電車内で、傭兵さんと話をしてまして。
(ほぼ一方的に話す感じになってしまいすみませんでしたm(_ _)m)
大学や就活、仕事、高校時代のこととか、いろいろ話してました。
そして(自分の一方的な話→すみませんです_| ̄|〇 のあとに)駅でわかれて、
自分が考えたことは→「助け合い」の大事さということです。
高校時代、お互い同じ部活にいたんですが、
話の中で、お互い別件ではありますが
「あのときは申し訳なかった」ってのがあって。


誰でもあの時に「こうしてれば…」「迷惑をかけた」とか、
逆に「おかげで助かった〜」ってことが
今でも思い出として印象深く残ってないでしょうか。
そんな中で、「あの時自分は迷惑をかけた」って
思いかえすことってありませんか。
わてもいくつもあります…むしろ迷惑の方が多いんじゃないかともι


そして今日ふと思ったことですが、
「申し訳ない」っていう思いの裏には相手を
本当に思いやる気持ちが隠れてるんだよなって。
そして相手を思いやっているからこそ「申し訳ない」って言えるわけで。
当たり前のことなんでしょうが、それを時が経った時に
話してもらえるのは、本当に自分のことを思いやってくれてたんだ、
っていうことの、かけがえのない証明だと思うんですよね。
そしてそう思ってもらっていた一方、「申し訳ない」と思われていたことが、
自分はさほど気にしてはいない、ということが結構あると思うんですね。


たいしたことではないのかもしれないですが、
でも、それこそが互いの「支え会い」の素晴らしい形だと思うんです。
自分は学生時代、どの方面でもかなり好き勝手やってきまして。
間違いなく保守的ではなく革新的なタイプだったと思いますι
はたまた人間不信にもなりましたし、感傷的にもなりましたし、
正直回りに迷惑かけたり、申し訳なかったり、
どうしようもないことをたくさんしてきたと思います。


そして、そうやってまわりに迷惑をかけて「申し訳ない」ことをしたと
思っていたのですが、その一方で、これまた先と同じで、
実際今までそれを自分ほど意識してた人はいないんですよね。
全然気にしてなかったり、むしろ逆に申し訳ないと思われていたり。
そしてこれは今日の話でもそうで。
「迷惑を〜」の他にも「助けて貰った」といわれても
実際自分は特に何もしたわけでもなく好き勝手やってたわけで、
「謙遜しなくていい」といわれてもこれが自分の事実なんですよね。
そんな経験ないですか?
でもこれも、裏を返せばみんな無意識の内にやっていることなのかもと。
それこそが、本当の思いやりであり、助け合いの心なんじゃないかなって。


話がややっこしくなりそうなんですが、自分が言いたいことは、
「人と人との助け合い、支えあいに気づくこと」って大事ですよねってこと。
思いやりが足りない世の中だといわれている昨今、
本当に思いやりはなくなってしまったのでしょうか。
自分にはそこまでは思えないんですよね。
その一方で、思いやりの表現が下手になっていることを感じます。
でもだからこそ、思いやりに「気づく」ことが大事なんじゃないでしょうか。


気づいている人にとっては何てことないことだと思うのですが、
今日自分が話してしみじみ思ったんで、文章にしてみました。
舌足らずなところが多々あるとは思いますが、すみません。
もちろん、これが正解なわけではなく、あくまでゾノの意見です。
ニュアンス的にも微妙なところですが、意図してるところ、
感覚がちょっとでも感じてもらえ、考えてもらえたらうれしいです。
違うんだよ、って場合はその考えるきっかけになってもらえたら幸いです。


そしてそれと同時に、いろいろあったけど今がある、
「今、ここ」=「now and here」を大切に。


また自己満足になってしまいましたι